開高健 夏の闇

  開高健には多くの名作がある。しかし、代表作はベトナム戦争を描いた「輝ける闇」とヨーロッパ滞在中の派遣記者がかつての恋人との再会を描いた「夏の闇」だろう。この2作品は開高の渾身の力作だ。昨夏20数年ぶりにこの2作を読んでみた。当時理解できなかった「夏の闇」に引き込まれてしまった。自分がある年齢に到達したことを示しているのかもしれない。

 物語は、主人公の特派員記者が、おそらくパリ(地名は記されていない)の駅でかつての恋人と10年ぶりに再会したところから始まる。男は学生下宿に泊まり、そこに女もしばらく滞在する。しかし、男はその部屋のベッドに根がはえたように横たわり、女は買い物をして食事をつくり、2人で酒を飲み、たまに下町で料理を食うという生活を続ける。女は、日本を出て10年、今はおそらくドイツ(地名は記されていないがベルリンか?)のどこかの都市の大学で研究員のポストを獲得して、博士論文を仕上げようとしていた。気丈でたくましい女である。パリでの2人の怠惰な生活は続き、粘っこい時間が流れて行く。男はすべてのことに無気力であり、対照的に女は精力的でたくましい。女は饒舌に語る。そして女の提案で列車で2人は女が住むドイツのアパートメントへ向う。そして、そこでも男は怠惰で自堕落な生活を続ける。男は旅にでることを提案する。2人はドイツの高原に向かう。開高は勿論釣りに堪能であることは知られているが、この物語でも高原の湖で大型のカワカマスを釣り上げることに熱中する男を描く。男は徐々に意識が覚醒してくる。そして街の特派員の駐在するオフイスでベトナム軍(ベトコン)のサイゴンへの大規模な攻勢が始まったことを知る。男は女の元を去り、ベトナムに向かうところで物語は終わる。
 
 開高は躁鬱病に悩んだという。開高は躁のときは、恐ろしいほどの創作エネルギーがほとばしるのだろう。この物語は、主人公の男が鬱的な症状を示している。「輝ける闇」は躁的だろう。この物語のモデルとなった女は実在したそうだ。しかし、彼女は早くして死ぬ。この女に開高は生涯魅かれたのだろう。開高にとってどうしても書かねばならない作品が「夏の闇」だったのだろう。初期のアナーキーな「日本三文オペラ」に始まり、人生の後半は釣りに熱中する。アマゾンを舞台にしたドキュメント作品とともに、開高の心の闇を描いたこの作品は忘れることができない。