死んだ父と戦争体験

 前回に続き父の戦争体験について断片的に聞いた話を書いてみる.重い話だ.数年前だろうか西宮市内の病院に入院し,父に会いに行った.そこで死が近いことを感じたのだろうか.突然訓練兵だったころ(恐らく昭和18年から19年だろう)「天草の海の上を練習機で飛んだときは,気持ちよかったなあ.」としみじみと言いだした.「アメリカ軍の戦闘機は来ないの?」と聞くと「そんなもん来るか」と言っていた.写真はその練習機(当時あかとんぼと呼ばれたらしい)とその前に立つ父の写真である.愚かな戦争に対する批判的な気持ちと青年期特有の冒険的なものに対する憧れが入り混じっていたのかも知れない.当時海軍は陸軍に比べて戦争に対して肯定的ではなく,また士官としてイギリス流の紳士的な教育を受けたようだ.士官に昇進し(確か中尉),基地内の兵舎から出て,民家に下宿を許されると近所の少女たちが何人も遊びに来たと語っていた.固い父にしては珍しいことを言ったと思う.彼女たちはもちろん慰安婦ではなく,どうやら「格好良い海軍士官」に会いに来たようだ.白い海軍士官の服を着ると確かに格好良いと思う.戦争が終わり,大阪に戻ってから,自宅から持って行った代々伝わる日本刀(鎌倉時代製作と言われる)を鹿屋の下宿に忘れ,祖父に怒られ,かなり後に父が鹿屋に取りに帰ったことを覚えている.余程貴重な日本刀だったのだろう.その刀も会社の経営不振で売り払ってしまい,今家にはない.子供の頃時々父が手入れをしていたのを覚えている.
ずっと以前に語ったことによると鹿屋基地では「白米,牛肉,マグロは食べ放題だった.」と言っていた.国民が飢えに苦しんでいるとき,食料はあるところにはあるようだった.父自身はアメリカ軍の戦闘機と空中戦は経験していないようだったが,終戦前に父は若い航空隊員の指導者になったと言っていた.当時優秀なベテランパイロットはほとんど戦死し,未熟な若手パイロットでは数に勝るアメリカ軍の戦闘機と戦うことはほとんど不可能だったろう.鹿屋基地の塹壕グラマン戦闘機の機銃照射受けたことは語っていた.写真は練習機の前に立つ父,前回書いた海軍の1人乗り潜水艦で特攻死した父の友人の堀川氏(その弟さんとは父が死ぬ前まで賀状の交換をしていたようだ)の写真である.20歳余りで戦死した堀川氏を心から追悼したい.